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    「おとうちやん、どこへ行くの」

    声をひそめて、富田が訊いた。

    もともと彼は先きの目あてがあつて河船頭になつたのではない。親父がさうで、お前もやれ、と云はれながら、うんと答へたまでである。いや、ろくに返事をしないでなつた。それは徳次にしてみれば、朝になればお陽様が東に出るのと同じ位にあたり前のことだつた。だが、実を云ふと、徳次は生れ落ちるとからと云つていゝほど徹頭徹尾「河育ち」だつたのである。彼は、どの淵にはどんな魚の巣があるかも知つていた。魚の通る路も、その休憩場所も知つていた。鮎の寝床も知つていて、夜河で岩から岩へつたひながら、手づかみする位は造作もないことだつた。夏場になると朝から日暮方まで川につききりなので、大抵の子供も町を中心にして一里位の川の様子はすつかりのみこんでいたが、徳次は早くから親父の船頭を手伝つていたお蔭で、河口まで七八里の間のそれこそ川底まで知りつくしていた。そんな風だから、先の見込があらうとなからうと、彼は河から離れる気はなかつたのである。さういふことを考へる才覚もなかつた。したがつて貧乏だつた。子供はたくさんいた。彼の妻は河より他に稼ぎ場所を知らない夫の代りに、手ごろの畑地を借り受けて百姓仕事を働いた。だが、河から上つているときの徳次は、金があつてもなくても破れ畳の上に悠然とあぐらをかいて、垢だらけの子供を肩にしがみつかせたり足にからませたりしながら酒を飲んだ。

    私はもともとヌル湯好きで、いつまでつかっても汗のでない程度が好きだ。

    「何だらう?」

    が、ぴんと張つた肩衣のためによけい幅広く見える後姿で、木箱のやうな沓くつをがたつかせ、戸外の明い日ざしの中でその紅い滲んだ紙色をまざまざと照し出されながら、歩いてゆく房一を見送つたときには、紛ふことなき珍妙さが、しかも「堂々」と歩いている形だつた。そして、百何十人もの老壮若の戸主達がこのばさばさした紙で着ふくれ、列をなして歩くときの様子は、まさに観物にちがひない、といふ実感を抱かせたのである。

    「大きいとも、こんなのを見たのは久し振りだ」

    房一が入つて来るのを見たとき、練吉の顔には意外だといふ表情が浮かんだ。彼は房一の眼を迎へようとして一層高く頭を持上げたが、房一は気づかなかつたので、やがて、練吉はわざわざ座を立つて近づいて来た。

    とにかく、それは遠い向ふで起つていることだつた。対岸の火事を見物するやうなものだつた。

    と、徳次は足を踏ん張つたまゝ今泉に云ひかけた。こんなに彼の方から話しかけるなんてことは滅多になかつたので、よほど虫のいどころがよかつたのだらうが、それでもいつものあの愚弄するやうな色は争はれなかつた。

    小谷は仰山ぎやうさんな表情になつた。

    彼は先だつて房一から全快祝ひに贈られたセルの上下を、仕立下したばかりのものを着こんでいた。夏からふた月あまり寝こんだとは云へ、日焼けの浸みこんだ黒い皮膚の色は容易にとれないと見えて、今もそれが真新しいセルの、明い地色と際立つた対照をなしていた。

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